映画「戒厳令の夜」を観た
昔テレビでやっていたのを観た記憶があるが、ほぼ忘れていたことを確認した。それは映画「戒厳令の夜」のことで、確か革命に関係するような話かと漠然とした知識で記憶していた。それはあながち間違いではないのだが、大雑把にいうとあまり追求されていない。そのようなテーマは弱い。

原作は五木寛之の『戒厳令の夜』(新潮社 1980年)なのだが、チリ・クーデターが背景にある。映画では南米にあるヌエバ・グラナダという架空の国となっている。当然だが、映画は原作とは別物なので、映画の感想となる。ただ、原作の筋なのはそのままのようだ。原作も読んだ気がするが…。
まず、話としては画家パブロ・ロペスの絵を巡るナチス・ドイツと日本の炭鉱主・資本家、そして政治家も絡む陰謀となるのだが、そのあたりはよくわからない。このあたり小説であれば、文章でさらっと書いてあるのかもしれない。
かんじんの絵画についても小説では文字で綴ればいいのだが、映画は具体的に見せないといけない。その絵自体は幻想的ではあるが、あまりインパクトのある絵ではない(竹中英太郎がこのために描いたらしいが)。個人的には凡庸な絵にしか見えない。
画家が描いていた時代なのだが、亡命したパリで絵がナチスに略奪されるということなので1930年代の美術ということだろう。その時代は世紀末からの激動の世紀で、資本主義や帝国主義の時代でもある。多くの表現様式が生まれて、芸術運動もそれに対応するものとなった。当のナチスもそのような革新的・社会的な美術を集めて「頽廃芸術展」として批判的な展示をしたこともあった。どうやらそのあたりが反映されていない。もっとあの時代や南米という地域を感じさせる絵を見せれば、印象は変わった。
主人公たちが懸命になって、絵を画家の生まれたその国に還す、というのもなんだか解せない。映画のなかで、絵を売らなかった画家で、農民暴動で実家の私設美術館も焼かれたとの話が出てくる、それでパリに出るのだが、それだと画家は、むしろその国の人々から拒否されたのではないか。映画のなかで主人公がつぶやく「デラシネ」という言葉も気恥ずかしいのだが…。
画家とその国の結びつきが見えないので、そのあたりも不可解な感じがする。画家と地域民衆のつながり、あるいはエピソードとして、例えばメキシコの壁画運動などのような側面があれば、納得できるのだが、なにより社会運動やプロレタリア文化運動が盛んだった時代でもある。その雰囲気があれば理解できるが、それもない。
そもそも、失われたという画家の作品を博多のバーで発見して、そこから物語が発展していくのだが、話が進んでもなぜそこまで主人公がその絵画に固執するのかが、今ひとつ理解できない、というか魅力が伝わらない。これがゲルニカや有名な絵であれば、好き嫌いは別にして納得はできるのだが、架空の画家の絵なので、なぜそこまで…という疑問が解消されないのだ。
主人公は九州に住む右翼の大物と結びついて、九州の炭鉱跡に隠匿されていた絵画の発見して奪還し、故国へ還すために奔走するのだが、それも先述の理由があって、行動を起こすことにも釈然としないことが残る、単純に割り切って娯楽映画と考えればいいのだが、なにせ思想的・政治的背景が多すぎるので、気になる。
小説自体がかなりスケールの大きな物語なので、それを映像化するには緻密にリアルに積み重ねないと陳腐なものとなってしまう。この映画はギリギリ頑張っているほうだがとは思うが、どうにも筋をなぞっている感があり、詰め込みすぎという結果となってしまった。音楽はなかなか良かったが…。
映画のポスターは樋口可南子の顔が大きく扱われていたのが印象的だが、映画のなかではあまり存在感はなく(演技も含め)、主人公も含めて人間が描けていない、むしろ鶴田浩二の注目度や長門勇のキャラが光っていた。やくざ映画を撮っていた山下耕作ならでは演出か。